昭和46年04月06日 夜の御理解
繁雄さんでも間違えてはならない、これは神様への事に、気持ちを表現する、一つの手段としても、きちっとした御祈念をさせて頂こうと云うのが私の信心ですけれど。夜は私は、いわゆる、朝が神様本意なら、夜はお参りして来る氏子本意と云うのが、私の基本になる。場合には、お参りして来る氏子本意ではなくて、私本意と云った様な時もやっぱある訳ですからね。
その辺のところをね、本当に私は、合楽の場合は有難いと思うですね。あの何と云うですかね、厳しいと云うこと、又はその、とはまた反対な意味の事が、何時も車の両輪の様に、その様な教導が何時もされて居ると云うことですね。只今もあの、久留米の井上さんが、今朝からお夢を頂かれたと云う。こう膳部が出来て座らせて頂いた。それを自分も座らせて頂いて居ると、親先生がその左側の方へ座られた。
そしたら自分の方が上に座って居ると思うて、こう横を見たところが、そこにもちゃんと床柱があって、そこが主客になる人が座る様になっておったと云う様なお知らせであったと。私共が、信心が、或程度のまあ低い時には、それでも信心があるからですけれども、心に引っかかることがあったり、御無礼でないことを御無礼と思うたりしてる様な場合がありますですね。ですから信心を進めて参りますと、信心を高めて参りますとね。それはお礼を申し上げること以外にないのです。
例えば、ここの御祈念のあり方なんかがやはりそうです。ここだけはと云うところは、神様本意で行き、ここだけはという様な厳しさではないけれども、いわゆる今晩の様に、もうずうっとお届けが、時間をこの様に取ってしまうのですから。ですから、それをきちっとしたら、後からの人は御祈念の後にお届けしなきゃならない。丁度例えば、一日の最後の夜の御祈念は、もう一人でもお届けがあってしもうて、一日のお礼を申し上げたいというのが私の心ですから。
それをまぁお届けしてしまいよると、こんなに遅くなって仕舞う訳ですね。ですからそういうところは、お礼申し上げねばならんところに引っかかったりする。だから、井上さんが頂かれた御理解の様に、信心を進めて行かなければ分からない。だから、それは御無礼じゃないですよ、引っかからんで良いですよと云うたって、やっぱり御無礼と思うし、または、引っかかるのですから。
信心を一段高めて行く所からです、御無礼でない所を御無礼と思うたり、引っかからんでいい所を引っかかったりして居る様なところが無くなってくる。まあここの朝晩の御祈念の様子という様なものからですね、所謂勿論神様本意なんですけれども、ようくようく考えてみよると夜の御祈念も、実を云うたらお参りして来る者本意と云って居るけれども、よくよくそれを思い深めてみると、やはり神様がお喜びになって行くことに焦点を絞ると、神様本意だと言う事になるのですね。
どうぞ。